還暦からの乗馬日誌

経験ゼロで61歳から乗馬を始めた記録です。

乗馬雑説-その2「千里の馬」

乗馬をやっていると、人間社会のこと、組織のこと、マネジメントのことなど、様々なことを考える。

ゴルフだと、こうはならない。

やはり、馬という意思を持った生き物を相手にしたスポーツだからだろう。

 

このことは、古代でも同様だったようで、馬のことに事寄せてリーダー論を書いた人がいる。

それは韓愈(かんゆ)という人で、日本でいえば平安時代、中国の唐の時代の人である。

韓愈は「雜説」という文章の中で、

世に伯樂有りて、然る後に千里の馬有り

と述べている。

 

伯樂は、「はくらく」とも読むし「ばくろう」とも読む。「ばくろう」と言った場合は、「博労」や「馬喰」という漢字を使う場合もある。

つまり、「ばくろう」という馬を扱う職業の人たちを表す言葉の起源が伯樂であり、中国の春秋時代の人だと言われている。

 

馬の善し悪しを見分ける目に優れ、また、馬の調教に優れていたとされる。

スポーツなどの優れたコーチを名伯樂と言うことがあるが、そもそも伯樂という言葉自体が名コーチという意味だから、「名」は余分といえば余分である。

 

韓愈が言っていることを要約すれば、

千里を走る名馬は常にいる。

しかし、それを見抜く人、活かす人はなかなかいない。

だから、折角の能力を持っている名馬も、その力を発揮できずに終わってしまう。

ということである。

 

「良い部下がいない」「人材がいない」と嘆く管理職や経営者は多いが、それは本当だろうか?

管理者や経営者に、優れた人材を見抜く目がないんじゃないか?育てる能力がないんじゃないか?と韓愈は問題提起をしている訳である。

 

ところで、千里の馬つまり名馬として、中国史で最も有名な馬は「騅(すい)」という馬だろう。

紀元前200年、項羽が騎っていた馬である。

 

項羽劉備に追い詰められて烏口(うこう)に辿りつき、最後を覚悟した際に、烏口の長に対して、

騅(すい)には5年騎っているが、無敵であった。ある時は一日に千里も走った。この馬を殺すには忍びないから、あなたに進呈する

と言ったという話が、司馬遷の『史記』に残っている。

 

また、名馬といえば「汗血馬」も有名である。

前漢武帝は、この「汗血馬」を得たいがために西域に遠征軍を出したとされる。

この「汗血馬」をモデルにしたとされるのが、1969年に甘粛省で出土した「馬踏飛燕」とよばれる2000年前の像である。

 

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「馬踏飛燕=馬、飛ぶ燕を踏む」であり、

燕よりも早く駆ける馬の像である。

 

躍動感あふれる素晴らしい像だとは思うが、この馬の肢の動きは、僕にはよく分からない・・・。

右後肢が着地し蹴っているが、次は右前肢が着地するようである。

 

これは、駈歩の歩様でもないし、襲歩の歩様でもないと思う。この歩様で早く走れるのだろうか?

よくわからない・・・・・。

ただ、実際に馬に乗っていると、今まで思いもしなかった所に目が行くものである^^

 

(ひょっとしたら、興味ある人がいるかもしれないので、韓愈の全文と書き下し文を記事の最後に挙げておきます。また史記項羽の最後を描いた部分も挙げておきます)

 

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雜説(韓愈 唐宋八大家文読本)
 世有伯樂然後有千里馬。千里馬常有、而伯樂不常有。故雖有名馬、秖辱於奴隷人之手、騈死於槽櫪之間、不以千里稱也。
 馬之千里者、一食或盡粟一石。食馬者、不知其能千里而食也。是馬也雖有千里之能、食不飽、力不足、才美不外見。且欲與常馬等、不可得。安求其能千里也。
 策之不以其道。食之不能盡其材。鳴之不能通其意。執策而臨之曰、天下無馬。嗚呼、其眞無馬邪、其眞不知馬也。

 

 世に伯樂有りて然る後に千里の馬有り。千里の馬は常に有れども、伯樂は常には有らず。故に名馬有りと雖(いへど)も、秖(た)だ奴隷人の手に辱められ、槽櫪(さうれき)の間に騈死(へんし)して、千里を以て稱(しよう)せられざるなり。
 馬の千里なる者は、一食に或ひは粟一石を盡す。馬を食(やしな)ふ者は、其の能千里なるを知りて食(やしな)はざるなり。是の馬や千里の能有りと雖(いへど)も、食飽かざれば、力足らず、才の美外に見(あらわ)れず。且つ常馬と等しからんと欲するも、得べからず。安(いづ)くんぞ其の能の千里なるを求めんや。
 之を策(むち)うつに其の道を以てせず。之を食(やしな)ふに其の材を盡くさしむる能わず。之に鳴けども其の意に通づる能わず。策(むち)を執りて之に臨みて曰はく、天下に馬無し、と。嗚呼(ああ)、其れ眞に馬無きか、其れ眞に馬を知らざるか。

 

項王之最期(史記 項羽本紀)
 於是項王乃欲東渡烏口。烏口亭長檥船待。謂項王曰「江東雖小、地方千里、衆數十万人。亦足王也。願大王急渡。今獨臣有船。漢軍至、無以渡」項王笑曰「天之亡我、我何渡爲。且籍與江東子弟八千人渡江而西、今無一人還。縦江東父兄憐而王我、我何面目見之。縦彼不言、籍獨不愧於心乎」乃謂亭長曰「吾知公長者。吾騎此馬五歳、所当無敵。嘗一日行千里。不忍殺之。以賜公」
 乃令騎皆下馬歩行、持短兵接戦。獨項王所殺漢軍数百人。項王身亦被十餘創。顧見漢騎司馬呂馬童曰「若非吾故人乎」馬童面之指王翳曰「此項王也」項王乃曰「吾聞『漢購我頭千金・邑万戸』吾爲若德」乃自刎而死。